先日Xを眺めていたところ、Amazonの配達員に荷物をゴミ箱へ入れられたという投稿が流れてきた。
そんな文章とともに掲載されていた写真には、屋外に置かれた大きな蓋付きのプラスチック容器と、その中に収められたAmazonの段ボール箱が写っていた。
これを見た私の第一印象は「ああ、宅配ボックスと間違えたんだろうな」というものだった。
というのも普段フードデリバリーの配達をしていると、こういった容器を宅配ボックスとして利用しているお宅って結構あるんですよ。
「宅配ボックスに入れてください」という指示があって玄関先に置いてあるのが、まさに今回の写真のような蓋付きのプラスチック容器。
そんなことは決して珍しくありません。
雨に強いし蓋も閉まるし、そこそこ大きな荷物も入る。
専用の宅配ボックスを買わずともホームセンターで売っているような容器で代用できる訳です。
なので今回の写真を見ても、悪意を持って荷物をゴミ箱に放り込んだ配達員というより、宅配ボックスだと思って荷物を入れた配達員の姿が浮かんだ。
もちろん、だから配達員には一切落ち度がないと言いたい訳ではありません。
投稿者によれば配送指示には「置き配不可。不在時のみ黄色のポストの宅配ボックスに入れてください。入らない場合は軒下に置いてください」と書かれていたそうです。
ならば今回の配達は指示通りではなかったのでしょう。
そこは配達員のミス。
ただそれはそれとして、
「ゴミ箱に入れるなんてひどすぎる!」
という反応にはどうにも共感できなかったんです。
だって、あるあるな間違いなんだもの。
配達員が間違えた。それはそうでしょう。
しかし、なぜ間違えたのかも容易に想像できるし、そこに悪意があったと考える必要もない。
少なくとも私だったら「ああ、宅配ボックスと勘違いしたのか」で終わる話です。
間違えたことと、ひどいことをしたことは必ずしも同じではないと思うのですよ。
そんな訳で私もこの投稿を引用し、
と書いた。
実際、同じような指摘をする配達員からのリプライも多かったようです。
配送指示を確認しなかったことは問題としても、あの容器をゴミ箱と見分けるのは難しい。
少なくともそれが配達現場を知る人間の感覚なのだと思う。
さて、その後投稿者は寄せられた指摘に対して色々と後出しで説明をしていた。
ゴミ箱は野ざらしでカビだらけで臭いこと。
別にポスト一体型の宅配ボックスがあること。
配送指示もきちんと記載していたこと。
なるほど、事情は分かった。
ただゴミ箱がカビだらけで臭いことを、配達員がどうやって事前に知るのだろう。
その家に住んでいる本人からすれば、どれがゴミ箱でどれが宅配ボックスなのかは一目瞭然でしょう。
でも配達員にとっては、その日初めて訪れた家かもしれない。
しかも新築のお宅だそうで。
長年住み慣れた我が家ならともかく、建てたばかりの家の設備についてまで見ず知らずの配達員が熟知しているはずもない。
どうやら最近の配達員には、住所を調べ荷物を運び交通法規を守るだけでは足りないらしい。
玄関先に置かれた容器の用途を瞬時に見抜き、カビの繁殖具合から内部の衛生状態まで把握する。
随分と高度な専門職になったものです。
結局、投稿者は今後ゴミ箱に「ゴミ箱」と書き、配送指示にも「ゴミ箱に入れないで」と追加するとのこと。
それで再発が防げるのであれば何より。
ただ個人的には、最初からそれで済む話だったんじゃないかなと思ってしまう。
少なくとも配達員がゴミ箱と宅配ボックスを取り違えるほど似ているのであれば、ゴミ箱であることを明示するのは悪い工夫ではないでしょう。
人間というのは他人の間違いには随分と敏感なくせに、自分にとっての当たり前が他人にも通用するとは限らないということには案外無頓着なものです。
そして、もう一つ気になったのが荷物の扱い。
投稿者によれば段ボールはボロボロで破れており、中身が見えていたそうです。
そのため当初は返品を希望したとのことだったのだけれど、後の投稿では返品せずに捨てたという話になっていた。
何を購入したのかは分からない。
食品だったのかもしれないし、衛生面に特別な配慮が必要な商品だったのかもしれない。
だから捨てたという判断そのものを否定するつもりはありません。
ただ段ボールの外箱が汚れたからといって、中の商品まで必ず駄目になる訳ではないでしょう。
私ならまず中身を確認するし、使えない状態なら返品や交換を考えると思う。
なので捨てたと聞いても「そういう判断もあるんだな」程度の感想しか浮かばなかったのだけれど、どうにも引っかかったのがその際に使われていた言葉。
「もちろん」
いや、もちろんって何がもちろんなんだろう。
どうやら本人にとっては、ゴミ箱に入れられた荷物を捨てるというのはわざわざ説明するまでもない当然の判断だったらしい。
しかし、それが万人に共通する常識かと言われれば私はそうは思わない。
自分にとって当然のことは他人にとっても当然である。
そういう考え方が、この「もちろん」という短い言葉から透けて見えるような気がした。
たった四文字でこれほど雄弁に自己主張ができるのだから便利な言語だよね。
さらに話は配達トラブルから、投稿についたリプライへの対応へと広がっていった。
投稿者は侮辱的なリプライがあったとして、開示請求の話まで持ち出していた。
実際に侮辱的な発言を受けたのであれば、それに対して法的な対応を検討することは自由でしょう。
しかし「この容器をゴミ箱と見分けるのは難しい」という指摘と、人格を攻撃するような誹謗中傷はまったく別のものです。
自分の意見に反対されたことと、自分が不当に攻撃されたこともまた同じではない。
投稿者がその両者をどこまで区別しているのかは分からないけれど、少なくとも今回の一連の発言を見る限り、私は少々危ういものを感じてしまった。
さて、ここまで長々と書いてきたけれど、結局のところ私はこの投稿者の考え方が嫌いなのだと思う。
配達員を批判したから嫌いなのではない。
配達員だって人間なのだから間違えることもあるし、間違えたのであれば批判を受けることもあるだろう。
ただ相手がなぜ間違えたのかを考えることなく、自分が不快に感じたという事実をそのまま相手の悪質さに結びつけてしまう。
そういう物事の捉え方が、私はどうにも好きになれない。
自分が不快だったことは事実だろう。
だが不快だったからといって、相手が悪意を持っていたことにはならない。
そして自分が当然だと信じていることが、必ずしも世間の常識であるとは限らない。
それは別に難しい理屈ではなく、他人と社会生活を営む上でごく当たり前のことだと私は思っている。
投稿者は育児中で、家も建てたばかりなのだという。
育児に追われる日々の中で楽しみにしていた荷物が思いもよらない場所に届けられていた。
それは確かに腹立たしい出来事だったのかもしれない。
だが腹が立ったということと、相手が許しがたい行為をしたということの間には本来それなりの距離があるはずだ。
その距離を埋めるものが理性であり想像力であり、時にはほんの少しの寛容さなのではないだろうか。
人間は誰しも自分の立場からしか世界を見ることができない。
けれど、だからこそ他人の立場に立って考える必要がある。
自分の感情を世界の中心に置いてしまえば、世の中はさぞかし理不尽な出来事に満ちた場所に見えることだろう。
そしてその理不尽のすべてに悪人が存在すると考えるのであれば、毎日がさながら勧善懲悪の物語である。
もっとも物語というものは、登場人物が自らを主人公だと思っているからこそ成立するのかもしれない。
ふと、アナタハン島のことが頭に浮かんだ。
アナタハン島にいたのが今回の投稿者のような女性だったならば、きっとアナタハンの女王事件は起こらなかったのではないだろうか。
そんなことを考えながら私はタンブラーに注がれたコーラを一息に飲み干し、ため息をついた。

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